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A社の佐伯さんがのらりくらりと

A社の佐伯さんがのらりくらりと。インターネットと少しだけ生活のこと。

「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」とか物理的に無理でしょという話

佐伯だ。「です・ます」調と「である」調の使い分けに迷っている佐伯だ。

 

最近考えていることは、幸せでいることは普通に無理だということだ。

人間は誰しも幸せになりたい、と思っているはずだ。でも幸せってなんぞや。

宗教のような話になるのはよろしく無さそうなので、端的に

幸せ=現状に価値を感じていること

と定義することにする。

 

例えば今の仕事、収入、住んでいる家、交友関係、恋人などそれぞれを総合して、それらに価値を感じている状態、と言えると思う。いい家に住んでいればそれはそれで幸せだろうし、収入も多いに越したことは無いし、綺麗な彼女なんかいれば最高だろう。

ただ、今回私が言いたいのは「それらは相対的に認識するもので、状態をささない」ということだ。大切なものは失ってから気づくとよく言われるが、まさにそういうことだ。認識の仕方は大きく2つ(過去に比べて)得たか失ったか、だ。

得た

・彼女が出来た

・何かを達成した

・何かを買った

・宝くじが当たった

etc 

失った

・彼女に振られた

・お金を落とした

・失業した

・身近な人が亡くなった

etc

 

この得た、失ったという変化を感じているだけで、それを幸福、不幸だと読んでいるだけなのである。そんな当たり前のことを思ったのだが、それを踏まえ、幸せでありつづけることは不可能じゃん、と思うわけだ。だって自分の身の回りは常に変わり続けるのだから(宗教ではありません)。幸せを求めて自分の基準を上げる努力をすれば、少なからず幸せを感じることが出来るだろう。しかしその維持はとても困難で終わりがない。下がったときの不幸は計り知れない。

 

ここからは態度の話になるが、その中で僕が考えるよりよい態度が2つある。それが

・今、この状態を幸せだと思う

・そもそも幸せを求めない

である

 

今、この状態を幸せだと思う

変化を認識するのが幸せであるならば、それは些細な変化でもかまわないのではないか?という考え方である。要は感受性を上げることである。しかし自らの感受性を変化させることはとても困難だし、それまでは「今が幸せだ」と半強制的に思い込ませるということになりかねない。なんだかそれは人間的で無い気がする。 

そもそも幸せにこだわらない

もはや悟りの境地である。自ら幸せになるような行動を行わず、変化に身を任せる態度である。幸せを求めず、不幸を嫌わない。良いことがあれば喜び、悪いことがあれば悲しむ、という受動できな態度である。

 

これらは決して相反するものではないと思う。

幸せを求めながら + 今の状態に幸せを感じ + 過度に幸せにこだわらない

などという複合的な態度も可能だし、それはそれで超人だ。

 

 

いずれにせよ、穏やかに生きれればいいよね、という話でした。

あれ?この話し宗教っぽい