海外で生活しているんだけど、思った以上に人間は違うという話
最近思ったこと。
今年始めあたりから、仕事の都合でフィリピンのセブで生活している。実は海外に行くのはこれが初めてで、当然のことながらこれだけ長い間、違う国で生活するのも初めてだ。そんなわけで感じたことを書いておく。
今まで自分はめっちゃ配慮されていた
これは自分でも気づいていることなのだが、日本で生活をしているときよりも怒ることが増えた。怒るといっても怒鳴るなど、表に出すようなものではなく「なんでそうなの?」と悶々とする程度だけど。理由を考えてみると「自分に配慮されていないから」だ。少し傲慢な言い方だが、例を挙げると以下のようなものだ。
- スーパーのレジ等のサービスが極端に遅い。「お客さんを待たせているから急がなきゃ」のような感覚が相手にはない
- カフェで他の客がいるにも関わらず大声で騒いだり歌ったりする
日本ではこういった怒りは無かった。逆に言うと日本では当たり前に他者に配慮がなされていたということだ。自分は今までその配慮は人間が社会で生活する中で当たり前のものだと思っていたが、それは日本固有の文化に過ぎなかった。自分は無知ゆえに、自分の育った文化以外を許容できなかった。だから怒った。「他者に配慮する」ことは日本固有の価値だと再認識した。
みんな平等に苦しもう
このニュースを読んで、内容はさておき「みんな平等に苦しもう」というフレーズが心に残った。これは一部危険な思考だ。それは他者に自分と同じ振る舞いを要求することであるからだ。そしてそれは、自分がフィリピンで感じた怒りと同じ構造だ。元来人間は同じプロトコルを持ち合わせておらず、共通化されている部分は思った以上に少ない。しかし、それになかなか気付けない。
自分だけでなく全体を考え行動する性質自体は、集団において適している。しかしそれは同調圧力という形で個人を苦しめることになる、ということを最近感じた。要は「思った以上に人間は違うよね」ってことが言いたかったんだけど、うまくまとめられなかったので精進しよう。